二、十一日、澄見と申す比丘尼、秀林院様へお目通り致し候。この比丘尼は唯今城内へも取り入り、中々きけ者のよしに候へども、以前は京の糸屋の後家にて、夫を六人も取り換へたるいたづら女とのことに御座候。わたくしは澄見の顔さへ見れば、虫唾の走るほど厭になり候へども、秀林院様はさのみお嫌ひも遊ばされず、時には彼是小半日もお話相手になさること有之、その度にわたくしども奥女中はいづれも難渋仕り候。これはまつたく秀林院様のお世辞を好まるる為に御座候。たとへば澄見は秀林院様に、「いつもお美しいことでおりやる。一定どこの殿御の目にも二十あまりに見えようず」などと、まことしやかに御器量を褒め上げ候。なれども秀林院様の御器量はさのみ御美麗と申すほどにても無之、殊におん鼻はちと高すぎ、雀斑も少々お有りなされ候。のみならずお年は三十八ゆゑ、如何に夜目遠目とは申せ、二十あまりにはお見えなさらず候。

 店の中には客が二人、細長い卓に向っていた。客の一人は河岸の若い衆、もう一人はどこかの職工らしかった。我々は二人ずつ向い合いに、同じ卓に割りこませて貰った。それから平貝のフライを肴に、ちびちび正宗を嘗め始めた。勿論下戸の風中や保吉は二つと猪口は重ねなかった。その代り料理を平げさすと、二人とも中々健啖だった。
 この店は卓も腰掛けも、ニスを塗らない白木だった。おまけに店を囲う物は、江戸伝来の葭簀だった。だから洋食は食っていても、ほとんど洋食屋とは思われなかった。風中は誂えたビフテキが来ると、これは切り味じゃないかと云ったりした。如丹はナイフの切れるのに、大いに敬意を表していた。保吉はまた電燈の明るいのがこう云う場所だけに難有かった。露柴も、――露柴は土地っ子だから、何も珍らしくはないらしかった。が、鳥打帽を阿弥陀にしたまま、如丹と献酬を重ねては、不相変快活にしゃべっていた。

 右様の者に候へば、重々頼み入り候へども、私検脈の儀は、叶ふまじき由申し聞け候所、一度は泣く泣く帰宅致し候へども、翌八日、再私宅へ参り、「一生の恩に着申す可く候へば、何卒御検脈下され度」など申し候うて、如何様断り候も、聞き入れ申さず、はては、私宅玄関に泣き伏し、「御医者様の御勤は、人の病を癒す事と存じ候。然るに、私娘大病の儀、御聞き棄てに遊ばさるる条、何とも心得難く候。」など、怨じ候へば、私申し候は、「貴殿の申し条、万々道理には候へども、私検脈致さざる儀も、全くその理無しとは申し難く候。何故と申し候はば、貴殿平生の行状誠に面白からず、別して、私始め村方の者の神仏を拝み候を、悪魔外道に憑かれたる所行なりなど、屡誹謗致され候由、確と承り居り候。然るに、その正道潔白なる貴殿が、私共天魔に魅入られ候者に、唯今、娘御の大病を癒し呉れよと申され候は、何故に御座候や。右様の儀は、日頃御信仰の泥烏須如来に御頼みあつて然る可く、もし、たつて私、検脈を所望致され候上は、切支丹宗門御帰依の儀、以後堅く御無用たる可く候。此段御承引無之に於ては、仮令、医は仁術なりと申し候へども、神仏の冥罰も恐しく候へば、検脈の儀平に御断り申候。」斯様、説得致し候へば、篠も流石に、推してとも申し難く、其儘凄々帰宅致し候。